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コギト・エルゴ・スム
「刹那、キスして」
その聞き慣れた“声”という音を捉え、更に意味を掴むまでは一瞬。そこからが長く、刹那は掴んだ意味を理解できずにぴしりと動きを止めた。声、言葉、その意味、いやまさかそんな、聞き違い、目の前の男は真顔、頭、は打っていない、俺も、恐らくロックオンも、落ち着け落ち着け落ち着け、落ち着け、状況の把握が最優先だ。
刹那は先程――つまり目前にふらりとロックオンが現れ真顔で理解しかねる言を発するまで、習慣と化したエクシアの機体チェック中だった。その証拠に刹那の指はチェック用の端末を叩いていたかたちそのままで動きを止めている。自分たちマイスターのリーダー格が現れても刹那は全く取り合わず端末のモニターを見つめていた。ここまでは別段普段と変わりない。そして、そう、その後。もう一度ロックオンの台詞を反芻してみる。『刹那、キスして』?
刹那はとりあえず、指を下ろした。次いでロックオンをじっと見返す。ロックオンは刹那の視線を受け、空色の瞳を微細に細めた。そして声には出さず、口の動きだけで言葉を紡ぐ。
『キ ス 』
刹那は深く頷いた。やはりこの男は頭を打ったのだ。極めて強烈に。
頭部損傷により今後の作戦行動で発生する可能性のある弊害を簡潔に告げた後、可及的速やかにメディカルルームへ向かうことをロックオンに勧めた刹那は、中断されていた作業を続行すべく再び端末に手を伸ばした。が、届く前にその手首は押さえられてしまった。モニターに落としかけていた視線を仕方なくロックオンへと戻す。
視線の先で、男の真剣な表情がくたりと崩れた。崩壊の向こうには常の笑みが浮かんでいる。ああ、この笑みは、
「頭は打ってない」
「……なら罰ゲームか」
戦術予報士やその周りの面々を思い浮かべる。彼らならやるかも知れない。少なくともアレルヤやティエリアよりも可能性は高いだろう。しかし刹那の台詞にロックオンは疲れたような溜め息を長くつきながら頭を振った。吐き出される息に気の抜けた炭酸飲料のような声が乗る。
「刹那ー、キスって何か分かってるかー?」
言っとくけど魚じゃねぇぞー? などと、蛇足。幼いだの世間知らずだのと稀に目前の男に言われる刹那だが、さすがにキスくらいは分かる。しかしキスが何であるかということと、ロックオンがいきなり自分にキスを求めてくる理由は別個の問題ではなかろうか。と思って笑む男をじっと見返すが、刹那が答えない限り喋るつもりはなさそうである。嫌々ながら刹那は口を開こうとし、しかし僅かに唇を動かすに留まった。キスが何なのかは分かっている、が、どう答えればいいのだろう。
しばし逡巡の間を置いて、刹那は無難そうな答えを挙げる。
「……対象に唇を触れさせること。一般的に親愛の情を示す行為として位置づけられている」
「そうそう、そんな感じ」
よく出来ましたと言わんばかりの笑顔を浮かべるロックオン。刹那は控えめにしかし素早く身を引いて、実際に頭を撫でようと手首を解放して伸びてきた彼の手を避ける。空を切った掌をくるりと天に向け、ロックオンは肩を竦めた。表情はやはり、常の笑顔。
この顔。あの手を甘んじて受け入れるべきだったのだろうか。いや、違うだろう。この男が自分に望んでいるイレギュラーな反応はひとつだけ。答えはそれに応えるか否かだ。今の行動はノーカウントだろう。
ロックオンの手はいつの間にか引っ込められていて、今は緩く波打った前髪に絡んでいた。そのままくしゃりと髪を掴み、ぞんざいに掻き揚げる。
「けど後ろ半分は今回当てはまらないんだ」
ああ、もちろん俺は刹那のこと好きだぜ? でもお前もちゃんと『一般的に』って付け足したもんな。
まるで独語のようなロックオンの台詞に刹那は僅かに目を伏せることで応える。こんな声は卑怯だと思った。拒否なんて出来ない。俺のことはいいから、先に行け。戦場でこう叫ぶ味方の声に似ている。つまり共に行きたいけれども、生きたいけれども、それが叶わないことを知っている声。見放されるのは当然で、どうか見放した己を責めないでくれと願う声。この男は拒否される前提で話している。拒否すればきっと、普段の軽口に摩り替えてしまうのだ。馬鹿としか言いようがない。どうしてこんな声で紡がれる言葉を拒否できるだろう。
形ばかりの反抗として、刹那はゆるく溜め息をついた。
「どうしてだ」
滑稽にも思える。刹那もロックオンも役者という意味ではてんで大根だ。それでも演じ続ける。今更二人して舞台から飛び降りるのも馬鹿らしい。投げ出された舞台の観客は自分たちだけなのだから。
「自分の形が欲しいんだ。俺一人じゃ、俺がここに居るのか居ないのか解らない」
「形」
「そ、形。メロンを四角い箱に入れて育てると四角いメロンになる感じ。だからキスして、刹那」
だから、がどこにかかっているのか判然としない。ロックオン自身にも分かっていないのだろう。相当重症だ。刹那はもう少しだけ反抗を続ける。
「俺じゃなくてもいいだろう」
よりによって男の俺じゃなくても。重ねて告げるが、ロックオンは何かとても大切なものを見るように目を眇めるだけだった。そうするとあの笑顔がはっきりと姿を現す。自分の立ち位置をわきまえているが故に、本来の自分を押し止めるため浮かべる苦しい笑顔。刹那は不意にこの男が自分より年上だったことを意識した。自分もいつかこんな風になるのだろうか。ロックオンの瞳の真ん中に、未だ子供の自分が映る。
ゆるりと、男の笑顔が類を変えた。再び掌が伸ばされる。今度は刹那も拒まない。大根役者たちのお粗末な舞台もそろそろ終いだ。ここからがイレギュラー。刹那は応えると決めている。
「ダメなんだよ、お前じゃないと」
「――ッ」
思わず刹那は体を震わせた。伸ばされた男の掌が刹那の掌を柔らかく握り、そして指を絡めてくる。そのまま持ち上げられて、絡み合った指にロックオンの唇が、落ちた。
「お前も俺と同じだから。自分の形を欲しがってる。ここに居るんだって感じたがってる」
「俺、が」
「ああ、お前が。お前はコイツが、」
そこでちらりと、ロックオンの目が黙して佇むエクシアを見上げる。
「――いればいいんだろうけど。一瞬でいいから、コイツじゃなくて俺で、感じてくれ」
俺はお前と違って、デュナメスとかハロじゃダメなんだよ。温もりがないと。ロックオンが呟くたびに、触れたままの指が弱い熱を孕む。思わず閉じてしまいそうになる目で、刹那は必死に相手を見返す。が、ロックオンの瞳の真ん中に映っている自分が躊躇うように揺れていた。まさかこの期に及んでまだ、この男は拒否されるつもりで居るのか。そのまさかだった。
「嫌ならいいんだ、このままでも、充分――…っ」
見縊られたと思った。
思った瞬間にはもう、刹那はロックオンの指を振り解いていた。視線がぶれる。一瞬見えたのは戦場で死を覚悟した兵士の顔、などではなかった。捨てられた子供の顔そのもの。いい大人がと笑うべきだったのだろうか。今このときでなければそうしていたかもしれない。無論内心でだが。或いは捨てられるわけがないと怒ればよかったのか。こちらのほうがまだ得手である。
刹那は振り解いた手を伸ばす。ともすれば頭ひとつ分以上高いところにあるロックオンの顔に向けて。
届いた手は相手の頬を挟み、勢いそのままに眼前へと引き寄せる。これで差は埋まった。先刻よりずっと近付いた視線は外しようもなく、刹那はそれを更に決定的なものにする。ほとんどゼロ距離で見るロックオンの表情はこれまで見たこともないほどに狼狽していた。刹那、と声なく紡いだ唇に、唇で、触れる。答えの、そして応えの、体現。
何の潤いもない唇は押し当てているだけで、ここから先は刹那の応えの範囲外だ。後はどうにでもなれと全て相手に任せるつもりで目を閉じれば、振り解かれ行き場をなくしていたロックオンの手が刹那の内心を読んだかのようなタイミングで腰に回された。
その聞き慣れた“声”という音を捉え、更に意味を掴むまでは一瞬。そこからが長く、刹那は掴んだ意味を理解できずにぴしりと動きを止めた。声、言葉、その意味、いやまさかそんな、聞き違い、目の前の男は真顔、頭、は打っていない、俺も、恐らくロックオンも、落ち着け落ち着け落ち着け、落ち着け、状況の把握が最優先だ。
刹那は先程――つまり目前にふらりとロックオンが現れ真顔で理解しかねる言を発するまで、習慣と化したエクシアの機体チェック中だった。その証拠に刹那の指はチェック用の端末を叩いていたかたちそのままで動きを止めている。自分たちマイスターのリーダー格が現れても刹那は全く取り合わず端末のモニターを見つめていた。ここまでは別段普段と変わりない。そして、そう、その後。もう一度ロックオンの台詞を反芻してみる。『刹那、キスして』?
刹那はとりあえず、指を下ろした。次いでロックオンをじっと見返す。ロックオンは刹那の視線を受け、空色の瞳を微細に細めた。そして声には出さず、口の動きだけで言葉を紡ぐ。
『キ ス 』
刹那は深く頷いた。やはりこの男は頭を打ったのだ。極めて強烈に。
頭部損傷により今後の作戦行動で発生する可能性のある弊害を簡潔に告げた後、可及的速やかにメディカルルームへ向かうことをロックオンに勧めた刹那は、中断されていた作業を続行すべく再び端末に手を伸ばした。が、届く前にその手首は押さえられてしまった。モニターに落としかけていた視線を仕方なくロックオンへと戻す。
視線の先で、男の真剣な表情がくたりと崩れた。崩壊の向こうには常の笑みが浮かんでいる。ああ、この笑みは、
「頭は打ってない」
「……なら罰ゲームか」
戦術予報士やその周りの面々を思い浮かべる。彼らならやるかも知れない。少なくともアレルヤやティエリアよりも可能性は高いだろう。しかし刹那の台詞にロックオンは疲れたような溜め息を長くつきながら頭を振った。吐き出される息に気の抜けた炭酸飲料のような声が乗る。
「刹那ー、キスって何か分かってるかー?」
言っとくけど魚じゃねぇぞー? などと、蛇足。幼いだの世間知らずだのと稀に目前の男に言われる刹那だが、さすがにキスくらいは分かる。しかしキスが何であるかということと、ロックオンがいきなり自分にキスを求めてくる理由は別個の問題ではなかろうか。と思って笑む男をじっと見返すが、刹那が答えない限り喋るつもりはなさそうである。嫌々ながら刹那は口を開こうとし、しかし僅かに唇を動かすに留まった。キスが何なのかは分かっている、が、どう答えればいいのだろう。
しばし逡巡の間を置いて、刹那は無難そうな答えを挙げる。
「……対象に唇を触れさせること。一般的に親愛の情を示す行為として位置づけられている」
「そうそう、そんな感じ」
よく出来ましたと言わんばかりの笑顔を浮かべるロックオン。刹那は控えめにしかし素早く身を引いて、実際に頭を撫でようと手首を解放して伸びてきた彼の手を避ける。空を切った掌をくるりと天に向け、ロックオンは肩を竦めた。表情はやはり、常の笑顔。
この顔。あの手を甘んじて受け入れるべきだったのだろうか。いや、違うだろう。この男が自分に望んでいるイレギュラーな反応はひとつだけ。答えはそれに応えるか否かだ。今の行動はノーカウントだろう。
ロックオンの手はいつの間にか引っ込められていて、今は緩く波打った前髪に絡んでいた。そのままくしゃりと髪を掴み、ぞんざいに掻き揚げる。
「けど後ろ半分は今回当てはまらないんだ」
ああ、もちろん俺は刹那のこと好きだぜ? でもお前もちゃんと『一般的に』って付け足したもんな。
まるで独語のようなロックオンの台詞に刹那は僅かに目を伏せることで応える。こんな声は卑怯だと思った。拒否なんて出来ない。俺のことはいいから、先に行け。戦場でこう叫ぶ味方の声に似ている。つまり共に行きたいけれども、生きたいけれども、それが叶わないことを知っている声。見放されるのは当然で、どうか見放した己を責めないでくれと願う声。この男は拒否される前提で話している。拒否すればきっと、普段の軽口に摩り替えてしまうのだ。馬鹿としか言いようがない。どうしてこんな声で紡がれる言葉を拒否できるだろう。
形ばかりの反抗として、刹那はゆるく溜め息をついた。
「どうしてだ」
滑稽にも思える。刹那もロックオンも役者という意味ではてんで大根だ。それでも演じ続ける。今更二人して舞台から飛び降りるのも馬鹿らしい。投げ出された舞台の観客は自分たちだけなのだから。
「自分の形が欲しいんだ。俺一人じゃ、俺がここに居るのか居ないのか解らない」
「形」
「そ、形。メロンを四角い箱に入れて育てると四角いメロンになる感じ。だからキスして、刹那」
だから、がどこにかかっているのか判然としない。ロックオン自身にも分かっていないのだろう。相当重症だ。刹那はもう少しだけ反抗を続ける。
「俺じゃなくてもいいだろう」
よりによって男の俺じゃなくても。重ねて告げるが、ロックオンは何かとても大切なものを見るように目を眇めるだけだった。そうするとあの笑顔がはっきりと姿を現す。自分の立ち位置をわきまえているが故に、本来の自分を押し止めるため浮かべる苦しい笑顔。刹那は不意にこの男が自分より年上だったことを意識した。自分もいつかこんな風になるのだろうか。ロックオンの瞳の真ん中に、未だ子供の自分が映る。
ゆるりと、男の笑顔が類を変えた。再び掌が伸ばされる。今度は刹那も拒まない。大根役者たちのお粗末な舞台もそろそろ終いだ。ここからがイレギュラー。刹那は応えると決めている。
「ダメなんだよ、お前じゃないと」
「――ッ」
思わず刹那は体を震わせた。伸ばされた男の掌が刹那の掌を柔らかく握り、そして指を絡めてくる。そのまま持ち上げられて、絡み合った指にロックオンの唇が、落ちた。
「お前も俺と同じだから。自分の形を欲しがってる。ここに居るんだって感じたがってる」
「俺、が」
「ああ、お前が。お前はコイツが、」
そこでちらりと、ロックオンの目が黙して佇むエクシアを見上げる。
「――いればいいんだろうけど。一瞬でいいから、コイツじゃなくて俺で、感じてくれ」
俺はお前と違って、デュナメスとかハロじゃダメなんだよ。温もりがないと。ロックオンが呟くたびに、触れたままの指が弱い熱を孕む。思わず閉じてしまいそうになる目で、刹那は必死に相手を見返す。が、ロックオンの瞳の真ん中に映っている自分が躊躇うように揺れていた。まさかこの期に及んでまだ、この男は拒否されるつもりで居るのか。そのまさかだった。
「嫌ならいいんだ、このままでも、充分――…っ」
見縊られたと思った。
思った瞬間にはもう、刹那はロックオンの指を振り解いていた。視線がぶれる。一瞬見えたのは戦場で死を覚悟した兵士の顔、などではなかった。捨てられた子供の顔そのもの。いい大人がと笑うべきだったのだろうか。今このときでなければそうしていたかもしれない。無論内心でだが。或いは捨てられるわけがないと怒ればよかったのか。こちらのほうがまだ得手である。
刹那は振り解いた手を伸ばす。ともすれば頭ひとつ分以上高いところにあるロックオンの顔に向けて。
届いた手は相手の頬を挟み、勢いそのままに眼前へと引き寄せる。これで差は埋まった。先刻よりずっと近付いた視線は外しようもなく、刹那はそれを更に決定的なものにする。ほとんどゼロ距離で見るロックオンの表情はこれまで見たこともないほどに狼狽していた。刹那、と声なく紡いだ唇に、唇で、触れる。答えの、そして応えの、体現。
何の潤いもない唇は押し当てているだけで、ここから先は刹那の応えの範囲外だ。後はどうにでもなれと全て相手に任せるつもりで目を閉じれば、振り解かれ行き場をなくしていたロックオンの手が刹那の内心を読んだかのようなタイミングで腰に回された。
- 我思う、故に我あり――
果たしてデカルトは正しかったのだろうか?
2007.10.11
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